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特攻隊員が愛する母親に宛てた本心を綴った手紙(遺書)と戦地へ赴く覚悟

特攻隊の人が母親に宛て感謝や本音を綴った手紙(遺書)

特攻隊は、太平洋戦争中に編成された特殊部隊であり生還の見込みが通常よりも低い決死の攻撃、もしくは戦死を前提とする必死の攻撃を行う攻撃隊のことで日本の太平洋戦争中の記憶の中での暗い部分として、当時の状況がよく分かる記録のひとつでもあります。

当時20歳そこそこの若者が国や家族を想い、尊い命を犠牲にして戦地へ飛び立った経緯があり、本音や母親に宛てた想いがつまった手紙が数多く残されています。

 

村田玉男二・飛曹の母親への感謝の気持ちと覚悟を綴った手紙

特攻隊員。亨年19歳

お母様、驚き遊ばされた事で御座いましょう。長い長い年月、手しおにかけてお育てくださいまして今日に到りましたが、何のご恩もお返しせず残念に存じます。お年を召されたお母様や、やさしい兄、姉妹を思いますれば、この決意も鈍りますが、なんのなんの畏れおほくもこの度の聖戦にて数知れぬ赤子を御奪われなされた陛下の御心に比しますれば、このくらいのこと、物の数では御座いますまい。この身は異国の海に果てようとも、泣かずにほめて下さい。お母様玉男を思い出しました時は大空を御覧遊ばしませ。そこにはきっと大空を飛べる飛行機の蔭に玉男の姿が見えるでしょう。最後にお願いとしてお母様身体に無理なき様、長寿遊ばせ。兄、姉妹よ老いたる一人の母を玉男の分まで親孝行する様に・・・・・・(玉男は死んだのではありません。姿は皆様の御前におらずとも、必ず皆様の許におり、楽しき我が家をなき父、靖国の兄と共に見守っております)

 

齋藤幸雄・海軍少尉の覚悟が見える手紙(遺書)

1945年5月11日 沖縄方面にて戦死。20歳宮城県出身。神風特別攻撃隊第六神剣隊

何も思ひ残すことはありません。ただ、万歳あるのみです。お母さん、きつと桜咲く靖國神社に来て下さいね。いつまでも、元気でゐて下さい

 

相花信夫・少尉の母親への気持ちがよく分かる手紙(遺書)

1945年5月4日 出撃戦死。亨年18歳

母を慕いて 母上様御元気ですか。永い間本当に有難うございました。我六歳の時より育て下されし母。継母とは言え世の此の種の母にある如き。不祥事は一度たりとてなく 慈しみ育て下されし母。有難い母 尊い母。俺は幸福であった。ついに最後迄「お母さん」と呼ばざりし俺。幾度か思い切って呼ばんとしたが 何と意志薄弱な俺だったろう。母上お許し下さい。さぞ淋しかったでしょう。今こそ大声で呼ばして頂きます。お母さん お母さん お母さんと

 

茂木三郎・海軍少尉の母親への別れの言葉と手紙

1945年5月4日 沖縄周辺にて特攻戦死。亨年19歳。神風特別攻撃隊第5神剣隊

遺言(昭和20年3月、母への言葉) 僕はもう、お母さんの顔を見られなくなるかも知れない。お母さん、良く顔を見せてください。しかし、僕は何んにも『カタミ』を残したくないんです。十年も二十年も過ぎてから『カタミ』を見てお母さんを泣かせるからです。お母さん、僕が郡山を去る日、自分の家の上空を飛びます。それが僕の別れのあいさつです

 

林市造隊員の母親への本音と感謝の手紙と母マツさんの手記

1945年4月12日 特別攻撃隊員として沖縄(南西諸島方面)にて戦死。亨年23歳

お母さん、とうとう悲しい便りを出さなければならない時が来ました。親思う心にまさる親心今日のおとずれなんときくらん。この歌がしみじみと思われます。ほんとに私は幸福だったです。わがままばかりとおしましたね。けれども、あれも私の甘え心だと思って許してくださいね。晴れて特攻隊員として選ばれて出陣するのは嬉しいのですが、お母さんのことを思うと泣けてきます。(でも私は技量抜群として選ばれるのですから、喜んでください。私はお母さんに祈って突っ込みます) 母チャンが私をたのみと必死でそだててくれたことを思うと、何も喜ばせることができずに、安心させることもできずに死んでいくのがつらいです。私は至らぬものですが、私を母チャンに諦めてくれ、と言うことは、立派に死んだと喜んでください、と言うことは、とてもできません。けどあまりこんなことは言いますまい。母チャンは私の気持をよく知っておられるのですから」(原文精査の要あり)。
母マツヘさんの手記

泰平の世なら市造は、嫁や子供があつて、おだやかな家庭の主人になつていたでしょう。 けれども、国をあげて戦つていたときに生まれ合わせたのが運命です。日本に生まれた以上、 その母国が、危うくなつた時、腕をこまねいて、見ていることは、できません。そのときは、 やはり出られる者が出て防がねばなりません。 一億の人を救ふはこの道と母をもおきて君は征きけり

 

大橋春男・少尉の母親への今までの感謝と今の気持ちを表した手紙

1945年4月1日 出撃戦死亨年26歳

母上様 お達者でお暮らしの御事と存じ上げます。二十八年間は夢のようでした。この二十八年間の母上様の御苦心、御辛抱、肝に銘じて居ります。されば今日の日を勇んで征きます。綾子の事に付いては、父上様と共に大変お世話になり、今日まで無事人並に立って来ました。これも皆父上様、母上様の御力の賜と深く厚く御礼申し上げます。綾子の事に関しては母上様今後とも一層御面倒を見てやって下さい。あれも正式なる式も挙げ得ず、常に二人で一度でよいから帰郷したいと申して居りましたが、それは出来ませんでした。それ故隣り近所の方々とは未だ親しくいたして居らず、突然一人ボッチでは随分苦労すると思います。女は女と、綾子の事は、母上様くれぐれもお頼み申し上げ、最後に母上様の御健康をお祈りいたして失礼いたします。母上様 治男

 

広田幸宣・海軍少尉の母親への気持ちを綴った手紙

1944年10月30日 比島方面にて戦死亨年21歳。第一神風特別攻撃隊葉桜隊

拝啓 たびたびのお便りうれしく拝見致しました。この前の便箋7枚の手紙を見ては涙がとめどなく頬を伝わりました。金送りましたが、こんなに喜んでいただけるとは思いませんでした。神様などへ備えなくともよろしいですから、すぐ用立ててください。少し金持ちらしくやってください。財布が底抜けにならぬよう一ケ月に一回は必ず補給します。(中略) 私は貯金はこちらでたくさんやっていますから、送った金はぢゃんぢゃん使ってください。(中略) みかん着いたそうで何よりです。できたらもっと送りませう。玉ちゃんにも小遣いできるだけ送りますからお嫁に行く日の貯金に、

お母さんの書いて寄越されたことも近い中にあるかも知れません。今度、金が自由になったらゆっくりと面会に来られないですか。やがては泊りもありますし、来ますし、共に寝ることもできるわけです。汽車は酔わなければ良いのだがなぁ。トランク要るなら送っても良いです。ではお体大切に。 ベッドの中で   懐かしい母上様、かぁちゃんよ!!

 

   

 - 特攻隊員