特攻隊の人が愛する家族に宛て本音を綴った手紙(遺書)
太平洋戦争中に編成された特殊部隊であり生還の見込みが通常よりも低い決死の攻撃、もしくは戦死を前提とする必死の攻撃を行う攻撃隊のことで日本の太平洋戦争中の記憶の中での暗い部分として、当時の状況がよく分かる記録のひとつでもあります。
当時20歳そこそこの若者が国や家族を想い、尊い命を犠牲にして戦地へ飛び立った経緯があり、本音や家族に宛てた想いがつまった手紙が数多く残されています。
関行男・大尉が家族に宛てた感謝の手紙
1944年10月25日 比島レイテ湾にて特攻戦死。亨年23歳。愛媛県出身(神風特別攻撃隊敷島隊)。
父上様、母上様 西条の母上には幼時より御苦労ばかりおかけ致し、不幸の段、お許しくださいませ。今回帝国勝敗の岐路に立ち、身を以て君恩に報ずる覚悟です。武人の本懐これにすぐるものはありません。鎌倉の御両親におかれましては、本当に心から可愛がっていただき、その御恩に報ずることもできず征くことを、お許しくださいませ。本日帝国のの為、身を以て母艦に体当たりを行い、君恩に報ずる覚悟です。皆様御体大切に。
満里子殿 何もしてゆることもできず散り行くことはお前に対して誠にすまぬと思っている。何も云わずとも、武人の妻の覚悟は十分できていることと思う。御両親様に孝養を専一と心がけ生活して行くよう。色々と思いでをたどりながら出発前に記す。恵美ちゃん坊主も元気でやれ。教え子へ。教え子よ散れ山桜この如くに
松尾勲・一等飛行兵曹が家族に宛てた覚悟の手紙
1944年10月29日 ルソン島東方にて戦死。亨年23歳(第二神風特別攻撃隊義烈隊)
父母上様 喜んでください。勲はいい立派な死に場所を得ました。今日は最後の日です。皇国の興廃この一戦にあり、大東亜決戦に南海の空の花と散ります。大君の御楯となって、分隊長をはじめ共に潔く死につき、七度生まれ代わり宿敵を撃滅せん。ああ男子の本懐これに過ぐるものがまたとありませうか。これもみな長い歳月強くなれよと育ててくださった父母上と、また我が子のように育て御指導くださった分隊士先輩方々の賜と、あるいはまた血のにじむような訓練の賜と深く深く感謝いたしております。二十三年の幾星霜、良く育ててくださいました。厚く御礼申し上げます。今度がその御恩返しです。勲は良くも立派に皇国の為に死んでくれたとほめてやってください。本当に兄弟の中で私は幸せ者でした。喜んでおります。弟も立派な軍人として御奉公できるようにしてください。お願い致します。もう何も思い残すことはありません。
父母上様 こんど白木の箱で帰ります。靖国神社で会いませう。長い間ありがとうございました。くれぐれも御身大切になさいますよう。
ああ雄々しき名も彗星艦爆隊、我ら第五義烈隊特別攻撃自爆隊、向かうところは敵空母へ急降下。最後の影をカメラにおさめていただきましたので、いずれゆっくりニュース映画で見てください。笑って艦爆隊一六勇士の姿を見てやってください。ああ玉と砕けん特別攻撃。最後の夜 十月二十八日 0100 於マニラ 勲 父上様母上様 咲くもよし 散るも又よし 桜花
富澤幸光・海軍中尉が両親に宛てた感謝と覚悟の手紙
1945年1月6日 比島にて戦死。亨年23歳 (神風特別攻撃隊第十九金剛隊)
お父上様、お母上様、益々御達者でお暮らしのことと存じます。幸光は闘魂いよいよ元気旺盛でまた出撃します。お正月も来ました。幸光は靖国で24歳を迎えることにしました。靖国神社の餅は大きいですからね。同封の写真は**で猛訓練時、下中尉に写していただいたのです。眼光を見てください。この拳(こぶし)を見てください。
父様、母さまは日本一の父様母様であることを信じます。お正月になったら軍服の前にたくさん御馳走をあげてください。雑煮餅が一番好きです。ストーブを囲んで幸光の思いで話しをするのも間近でせう。靖国神社ではまた甲板士官でもして大いに張り切る心算です。母上様、幸光の戦死の報を知っても決して泣いてはなりません。靖国で待っています。きっと来て下さるでせうね。本日恩賜のお酒を戴き感激の極みです。敵がすぐ前に来ました。私がやらなければ父様母様が死んでしまう。否日本国が大変なことになる。幸光は誰にも負けずきっとやります。
ニッコリ笑った顔の写真は父様とそっくりですね。母上様の写真は幸光の背中に背負っています。母様も幸光と共に御奉公だよ。何時でも側にいるよ、と云ってくださっています。母さん心強い限りです。幸雄兄、家のことは万事頼む。嘉市兄と共に弟嘉平、久平、保則君を援けて仲良くやってください。恩師に宜しく申し上げてください。十九貫の体躯、今こそ必殺轟沈の機会が飛来しました。小樽の叔父、叔母様に宜しく。中野の祖母様に宜しく。国本師顕殿、お世話を謝します。叔父さん、幸光は立派に大戦果をあげます
松尾巧・海軍一等飛行兵曹が家族に宛てた遺書
1945年4月7日、出撃戦死。亨年20歳 (神風特別攻撃隊第二御盾隊銀河隊。)
謹啓 御両親様には、相変わらず御壮健にて御暮しのことと拝察致します。小生もいらい至極元気にて軍務に精励いたしております。今までの御無沙汰致したことをお詫び致します。本日をもって私もふたたび特攻隊員に編成され出撃致します。出撃の寸前の暇をみて一筆走らせています。この世に生をうけていらい十有余年の間の御礼を申し上げます。沖縄の敵空母にみごと体当りし、君恩に報ずる覚悟であります。男子の本懐これにすぎるものが他にありましょうか。護国の花と立派に散華致します。私は二十歳をもって君子身命をささげます。お父さん、お母さん泣かないで、決して泣いてはいやです。ほめてやって下さい。家内そろって何時までもいつまでも御幸福に暮して下さい。生前の御礼を申上げます。私の小使いが少しありますから他人に頼んで御送り致します。何かの足しにでもして下さい。近所の人々、親族、知人に、小学校時代の先生によろしく、妹にも……。後はお願い致します。では靖国へまいります。 四月六日午前十一時記す
佐藤新平・海軍曹長が家族に宛てた今までの感謝の気持ちを綴った手紙
1945年4月16日、沖縄西方洋上にて戦死。亨年23歳 (陸軍第79振武隊)
お母さんへ 幼い頃から思えば随分と心配ばかしお掛けしましたね。腕白をしたり、又何時も不平ばかし言ったり。目を閉じると子供の頃のことが、不思議なぐらいありありと頭に浮かんで参ります。悪いことなどすると神様に謝らせられたり、又幼いころ『今日の良き日を有難うございました』と毎日拝神のことをやかましく言われたお母さんでした。今日になり本当にあの頃からお母さんの教育がどんなにか新平の為になったことでせう。病気で心配をかけたり、又苦学の時も随分と心配をかけたり。
苦学と云えば、家を出発する時、台所でお母さんが涙を流されたのが、東京にいる間中頭に焼きついて、あの頃どんなにか帰りたかったことか知れませんでした。お母さんの本当の有難味が解ったのは東京へ出てからでした。あれから余り家に居ることもなく、ゆっくりお母さんに親孝行をする機会のなかったことだけ残念です。軍隊に入ってお母さんにお会いしたのは三度ですね。一度は去年の休暇、二度目は去年の暮近く館林まで来ていただいた時。あの時は新平嬉しくて嬉しくてたまりませんでした。態々長い旅をリュックサックを背負って会いに来てくださったお母さんを見、何か言うと涙が出そうで、ついついわざわざ来なくても良かったのに等と口では反対のことを言ってしまって申し訳ありませんでした。あの時、お母さんと東京を歩いた思いでは極楽へ行ってからも、楽しい懐かしい思いでとなることでせう。
あの大きな鳥居のあった靖国神社へ今度新平が祀られるのですよ。(中略) 手を繋いでお参りしましたね。今度休暇で帰った時も、お母さんは飛んで迎えに出てくださいましたね。去年の時もそうでした。
父上様へ お父さん 新平、日露戦争へ行かれたお父さんの子供として恥ずかしくない死場所を得ました。お喜びください。我がまま者の新平、子供の頃から何時も心配ばかりかけ申し訳ございませんでした。御恩返しに、うんと親孝行しようと思っていましたが、結局何もできずにしまいましたことをお許しください。随分大きくなるまでお父さんと一緒に寝た新平は、幼い頃お母さんに、お前はお父さんの子、文吾は俺の子等と云われたものでした。厳格な半面、子供の時から人一倍可愛がっていただいた新平は本当に幸福でした。酒に酔われて義太夫や踊りをやられたお父さんの昔の姿が懐かしく思い出されます。どうぞお父さん、何時までも御壮健で文夫や洋治を可愛がってください。書きたいことは幾らでもありますが、今日はこれで止めます。
日本一のお母さんを持った新平は常に幸福でした。小雨の降る夕方、お母さんと一緒にかこちゃんのお母さんのお墓参りを一緒に歩いた事、天神様へ成績の御知らせに行った事等楽しい思い出は次々と尽きません。特攻隊の事も早く知らせてくれれば、手紙でも出して激励してやったのに、お母さんは残念がるかも知れませんが、お母さんの気持ちは新平解り過ぎるぐらい解って何時も感謝しておりますから、余計なことを心配しないでください。私としてはどうせ直ぐ解ることですから、早く知らせて心配かけてはと思って知らせなかったのですから、悪く思わないでください。りウマチや、神経痛に充分注意して、天から与えられた寿命だけは絶対に生き延びなければいけません。
文夫、洋治もお母さんがよく見守って立派な子供になるよう鍛えてください。決して気を落としたりして、体を損ねられないようご注意ください。お父さんの方が後になり変になりました。一足先に失礼します。今晩、隊の壮行式があり、一寸酔っておりますので字も乱れております。河野、小林先生にも宜しくお出で願いいたします。小生必ずや大きな戦果をあげて店ます。沖縄沖の戦果に御期待下さい!!
遺書
天皇陛下万歳、大命を拝し、新平只今特別攻撃隊の一員として醜敵艦船撃滅の途につきます。日本男子としての本懐これに過ぐるものはございません。必中必沈以て皇恩に報い奉ります。新平本日の栄誉あるは二十有余年にわたる間の父上様、母上様の御薫陶の賜と深く感謝致しております。新平肉体は死すとも魂は常に父上母上様のお側に健在です。父上様母上様も御老体ゆえくれぐれも御体を大切に御暮らしください。決して無理をなさらぬよう。では日本一の幸福者、新平最後の親孝行に何時もの笑顔で元気で出発します。親類の皆様方近所の人たちに宜しく。新平拝 御両親様
永尾博・海軍中尉が家族に宛てた遺書と気持ち
1945年4月28日、沖縄近海にて戦死。亨年22歳 (神風特別攻撃隊第三草薙隊)
一、生を享け22年の長い間、小生を育まれた父母上様に御礼申し上げます。
一、親不孝の数々お許しください。
一、小生の身体は父母のものであり、父母のものでなく、天皇陛下に捧げたものであります。小生入隊後はなき者と御覚悟ください。
一、小生も良き父上、良き母上、良き妹二人を持ち心おきなく大空の決戦場に臨むことができます。
一、父上も好子、壽子を小生と心得御育みください。
一、母上、父上のこと末永くくれぐれもお願い申し上げます。
一、父、母上の、また妹の御健康をお祈り致します。
父さん 大事な父さん 母さん 大事な母さん 永い間、色々とお世話になりました。好子、壽子をよろしくお願い致します。靖国の社頭でお目にかかりませう。では参ります。お身体お大事に。
溝川慶三・小尉が家族に宛てた覚悟の気持ち
1945年4月28日 出撃戦死(飛行第105戦隊)
御両親様 いよいよ本日、出撃の命令がありました。ご安心ください。必ずや立派に成功致します。今は出撃二時間前です。我々一行皆な朗らかです。私もニッコリ笑って行きます。今はもう総ての俗念も去ってすがすがしい気持ちです。数時間後には、この世を去るとは思えないほど、抱える爆弾はどす黒く光っています。しっかり爆発するぞと云わんばかりに。では行って来ます。皆様、お元気で
小川清・海軍中尉が家族に宛てた今の気持ちと辞世の言葉
1945年5月11日 南西諸島方面にて特攻戦死 亨年24歳 (神風特別攻撃隊第七昭和隊)
お父さんお母さん。清も立派な特別攻撃隊員として出撃することになりました。思えば二十有余年の間、父母のお手の中に育ったことを考えると、感激の念で一杯です。全く自分ほど幸福な生活を過ごした者は他にないと信じ、この御恩を君と父に返す覚悟です。あの悠々たる白雲の間を越えて、坦々たる気持ちで私は出撃して征きます。生と死と何れの考えも浮かびません。人は一度は死するもの、悠久の大義に生きる光栄の日は今を残してありません。父母上様もこの私の為に喜んでください。殊に母上様には御健康に注意なされお暮らし下さるよう、なお又、皆々様の御繁栄を祈ります。清は靖国神社に居る居ると共に、何時も何時も父母上様の周囲で幸福を祈りつつ暮らしております。清は微笑んで征きます。出撃の日も、そして永遠に
時世
身はたとへ 敵艦船と砕くとも 七度生きむ あすきこころは
ありがたき 御代にうまれて やくだてる そのよろこびに われはゆくなり
御両親様へ
うみやまに まさるめぐみにむくひなむ 道をゆくなり いさみいさんで
亡き兄さんえ
極楽の 兄弟酒を 偲びつつ
時岡鶴夫・海軍少尉が家族に宛てた今までの感謝の気持ちと覚悟を綴った手紙
亨年24歳 (神風特別攻撃隊第六筑波隊)
父上様母上様御一同様 愈々明日出撃です。もう準備萬端整ひ防空壕で寝台に臥せり乍らこの便りを書いています。一昨日の攻撃に出陣する筈でしたが、飛行機の整備が悪く、残念にも取残されました。岡部中尉、森少尉、福田少尉、中村少尉は戰死されましたが、黒崎少尉、伊東少尉、西野少尉私の四人は明日一緒に征きます。昨日も出發する予定で飛行場に行き、既に飛行機に乗ってゐたのに急に中止になりがっかりしました。然し明日は出られますので断然張切ってゐます。明鏡止水といふ所です。明日こそは必ず必ず見事に命中して見せます。目指すは正規空母です。敵機動部隊の眞只中に櫻の花を咲かしませう。明日一緒に征く連中が皆夫々里へ便りを書いたり作戰を練ったりしてゐます。美しく勇ましいそして静かな光景です。皆偉いです。しかし皆に出来る事が私にだけ出来ない筈はありませうか。やるぞ断乎やる。
さて、二十四年間の私の生活は実に幸福なものでした。良い家族で良い両親と良い兄弟に包まれ、自由に楽しく過して来ました。本当に満足して死ねます。お父様には筑波で会へるし、お母様は苦労して遠い所を訪ねてくださいましたし、二晩もゆっくり話をして、私の氣持も私達の生活もよく知って戴きましたし、実に幸運に恵まれてゐます。最后迄この幸運が続いてうまく命中する様祈る許りです。佐々木にも会ひました。彼は少々遅れるので口惜しがってゐます。鹿屋荘には二度程行きました。西野と福田と三人で雛一羽と玉子十ケをもって飲みに行き、風呂へ入り、一晩ゆっくり語りました。とても有意義な一夜でした。明日征ったら、森や福田が一升さげて待ってゐる事でせう。また皆で痛飲します。
今日迄何の孝行もせず申訳なき次第ですが、お役に立った事をもって許して下さい。時岡家の長男として父祖代々の家をつげず、残念といふより申訳ありませんが、国なくして家もなしですが、その代わり沖縄だけは必ず勝ちます。安心して下さい。(中略) 福田の恋人の○○○子さんが林田区東尻池○丁目○○ノ○○石井様方宛で便が付きますから、福田の元気だった様子でも知らせてあげて下さい。今十一時、もう寝なくては明日の出撃に差支へますから止めます。感謝しつつ征きます。死を知らんとす、また楽しからずや そうそう藤田少尉の奥さんが家に来られたかも知れません。藤田も一緒に行きます。佐藤はまだ當高にゐます。では皆様、いや、おばあさん、お父さん、お母さん、○子、お元氣で頑張って下さい。○○の宛名がわかったら知らせて下さい。頑張って、張切って、行きます。さよなら
五月十三日午后十一時十九分 鶴夫拝
お祖母様 お父様 お母様 ○子様(良い奥さんになれよ、我儘禁物)
松本真・海軍二等飛行兵曹が手紙にしたためた家族への気持ち
1945年5月25日 沖縄周辺にて戦死亨年19歳 (神風特別攻撃隊菊水部隊白菊隊戦士)
父母様 いよいよ待ちに待った体当りの日が参りました。血湧き肉躍る感じがします。今では心も落ち着き毎日はな歌にて出撃の日を待っています。父母様 見ていてください。キットキット成功して御覧に入れます。私には日本の神々様ついていてくださるのです。飛行服に白の丸つけて、日ノ丸の鉢巻きした男の中の男の姿を一度父母様方や兄上弟達に見て貰いたいです。父母様行って参ります。くれぐれも御身大切に、一日もご長寿せられ御多幸あらんことを沖縄の空にてお祈りしております。ではさようなら。真より 父母様
西山典朗・二飛曹飛行兵が家族ひとりひとりに残した言葉と手紙の内容
3月18日 九州の海に戦死。亨年20歳
段々と暮しよくなり皆様御元気で御暮らしのことと思います。祖父様、お元気でお暮らしのことと思います。 帰郷中は色々と御世話になりました。私は毎日元気にやっています。 我々もやがて一生懸命に敵と一騎打が出来る日が来ると思います。家の名誉にかけて働きます。 どうか御大事に。父上様、先日は有難う御座いました。 無事御帰りになられた事と思います。私は元気一杯やっております。 父上の教訓を守って一生懸命にやって来ます。幸朗の入学の事やその他弟妹のことはお願い致します。 そして無事幼年学校にやって下さい。中学校時代の私の都合の悪い物がないとも限りませんが、後で辱かしくない様なものがありましたら処理して下さい。 御別れしてから一寸も淋しくはありませんでした。
母上様、先般の休暇で皆様の事もよくわかり、又元気でいられる姿を見てすっかり安心しました。弟妹達とも心ゆく限り遊べて何の悲しみ、悩みも、毛頭ありません。 母上の心も日本晴れとの事で喜んでおります。 今から実際に一騎打ちが出来るのです。考えただけでも愉快です。又玉中から来た者も8名おります。山口、牧島も決して心配には及びません。
思う存分世の中を駆け回って来ます。 祖父も日露戦争後の軍人、父上も軍人、それに私も軍人で実際に役立つ家門の名誉と思って下さい。 どうか御病気になりませぬ様御祈り致します。
幸朗君、今、目前或いは最中か、一大難関を突破せよ、そして、まず幼年学校に突撃されよ、一番大切なのは体だ、体なくては何の用にも立たぬ。一、父上母上に兄さんに代わって孝行すること。二、兄弟仲良くすること、決して洋光、紀光を泣かせるな。三、身体を無理せぬ様勉強する事。但し一番にならなければ何にもならぬ。四、家の手伝いをすること。 (終)
雅子ちゃん、お元気で勉強して下さい。 母ちゃんの言われることをよくきいて一生懸命に。洋光、紀光と仲良く遊んでやりなさい。 母ちゃんが心配せぬ様お手伝いするんですよ。
洋光サン、ユビヲ五ツカゾエルト一年生デスネ。トウチャンヤ、カアチャンノイフコトヲキイテベンキョウシテイルデショウ。ノリミツトナカヨクアソンデクダサイ。キュウチョウニナリ、カアチャンヲヨロコバセテクダサイ。オゲンキデ、サヨナラ。
ノリミツサン、ニイサントスモウヲトッテ、ニイサンヲナゲタノリミツサンハ、ナカナイデオリマスカ。ニイチャンタチト、ナカヨクシテクダサイネ。マタニイサンガカエッテ、スモウヲトリマショウ。コンドハ、アメリカノヒコウキヲモッテキマス。カアチャンヲコマラセナイヨウニ。
先般司令官少将朝融王殿下が臨席になり、隊内から数名の練習生選ばれ御前にて参謀より試問をうける光栄に浴しました。 母上様どうか喜んで下さい。 この新たなる感激を受け、又一層頑張るつもりです。では皆様御元気で、私の事は一切心配されませぬ様くれぐれもお願い致します。
二伸 如何なる難事も最後まで沈着に、いつまでも体を無駄にせず思う存分落着いてやります故御安心下さい。 又軍刀は脇差で結構です
注)幸郎(弟) 雅子(妹) 洋光(弟) 紀光(弟)
大村俊郎・陸軍少尉が残した家族への想いと率直な気持ち
亨年18歳。菊水特別攻撃隊
お父様、長らく御無沙汰致しております。その後お変わりなく、お働きの事と存じます。俊郎も至極強健、操縦任務に献身致しておりまする故、なにとぞ御安心下さい。内地の報を耳に致す度に、我が胸中裂けん思いで一杯です。馬来の状況も、日一日と悪化致し愈々我が、今に生まれし特攻隊として、敵空母戦艦撃沈さすその時期を、待つのみです。
お父様俊郎は、鎌倉に生まれし事を嬉しく且つ、幸福に存じます。俊郎、生を受けてより今日まで何一つ孝をなさず。子としての、務めに非ずと思いしも致せず。しかしながら俊郎、ひと度び特攻機と、運命を共に致した時はどうかこれが、俊郎の最初で最期の孝行と思って下さい。皇民と生まれし我の幸せ、人間一度は死するものなり、黒か白か二つの内一つなり。白き箱にて、帰りました暁にはどうぞ、花の一枝でも上げて下さい。男の本懐之に過ぐるにあらん。敵、本土上陸せば親も子も非ず、ただ国に身を尽すのみ。暫くすれば俊郎と、靖国の社にて親子の対面なり。
ああ壮なる歳、十八歳にして特攻隊として死せるか、悠久の大義に生きるか、我、笑って死なん。馬来の夕暮れ椰子の葉、夕日が西に沈まんと欲す。我一人、遠き郷里の母の顔を瞼に浮かべ、父母の健在を祈る。願くば靖国に来りて。俊郎より
時枝に告ぐ 我が妹なりと思えば何か、筆を走らさん。兄として何一つ、面倒を見ずして死するは実に、悔むるところなり。 しかしながら我が志、何か通はん。十五なりといえども、今は子供に非ず。兄無き後はよく、父母に使へ兄の分まで孝をなしてくれ。妹、勝子の指導又大なり。私心に走ること無かれ、本性を理解せよ。兄より
国(君)の為、何が惜しまん我が命、死して護国の神と化しなん
まとめ【特攻隊員の手紙】
【手紙】特攻隊員が愛する母親に宛てた本心(遺書)と覚悟の内容
【手紙】特攻隊員が愛する家族に宛てた本心(遺書)と覚悟の内容
【手紙】特攻隊員が愛する姉や妹に宛てた覚悟の遺書と内容
【手紙】特攻隊員が愛する妻や恋人に宛てた実際の手紙の内容
人間魚雷「回天」に搭乗し戦場へ旅立っていった人たちの手紙(遺書)と心境