【手紙】夏目漱石の人柄がよく分かる手紙と素顔が垣間見れる内容と言葉の数々

夏目漱石という人間と人柄がよくわかる手紙

明治時代の日本を代表する作家である夏目漱石は、歯切れのよい文体とユーモアあふれる人物描写が特徴で、その人間の本質に鋭く迫る作品で、今も高い人気を誇っている日本の作家になります。

夏目 漱石(1867年2月9日~1916年12月9日没)

日本の小説家、評論家、英文学者で、本名は夏目 金之助。大学時代に正岡子規と出会い親交があり一緒に俳句を学ぶ。帝国大学(現在の東京大学)英文科卒業後、松山で愛媛県尋常中学校教師、熊本で第五高等学校教授などを務めた後、イギリスへ留学。

帰国後、東京帝国大学講師として英文学を講じながら、「吾輩は猫である」を雑誌『ホトトギス』に発表。これが評判になり「坊っちゃん」「倫敦塔」などを書く。晩年は胃潰瘍に悩まされ、1916年12月に亡くなる。

そんな漱石は、当時から手紙好きとして有名で、葉書も含めると現在のこされている書簡は、確認されているだけでおよそ2500通あるとされ、その内容は季節のあいさつや弟子へのアドバイス、友人への手紙など色々な手紙を書いたと言われています。

 

手紙を愛した人柄が分かる弟子に宛てた漱石の手紙

漱石は、手紙を残し伝えるという面白さをよく理解しており、自宅を訪問してくれた弟子に不在をわびる手紙を残したことがありました。その手紙にも、漱石らしい手紙の使い方と遊び心・ユーモアが現れています。

きのうは留守に来て菓子を沢山置いて行って下さいましてまことに難有(ありがと)う存じます あの菓子は暑中見舞なんだろうと想像しましたがそうなんですか 夫(それ)とも不図(ふと)した出来心から拙宅へ来て寝転んで食う積(つもり)で買って来たんですか そうすると大いにあてが外れた訳で恐縮の度を一層強くすることになります 兎に角(とにかく)菓子は食いましたよ

 

本音を綴る手紙と漱石の苦悩が現れた手紙

漱石は、1900年5月、文部省より英語教育法研究のため(英文学の研究ではない)英国留学を命じられるが、英文学研究への違和感がぶり返し、再び神経衰弱に陥り始める。不安的な精神状態だったことが手紙からもよく見え、友人や家族に宛てた手紙や葉書には、漱石本来の明るさは影を潜め、異国暮らしの寂しさ、研究に行き詰った辛さが記されています。

なかでも妻鏡子へ送った手紙には、漱石らしい言葉で寂しい気持ちが書かれています。

御前でも子供でも死んだら電報位は来るだろうと思って居る 夫(それ)だから便りのないのは左程(さほど)心配にはならない 然(しか)し甚だ淋い おれの様な不人情なものでも頻りに御前が恋しい 是丈(これだけ)は奇特と云って褒めて貰わなければならぬ

 

父親としての漱石の気持ちと子供への愛

帰国後、漱石は『吾輩は猫である』で小説家としてデビュー。この時から、作家として生きていくことを熱望し始め、その後『倫敦塔』『坊つちやん』と立て続けに作品を発表し、人気作家としての地位を固めていき一躍、人気作家となります。

その後、43歳になった漱石は胃潰瘍をわずらい、静岡県修善寺で療養生活を送るのですが、その時に子供達に宛てて書いた手紙には父親として漱石の顔と心情がよくうかがえます。

此頃は大分(だいぶ)よくなりました。今に東京へ帰ったらみんなであそびましょう。三人とも学校がはじまったらべんきょうするんですよ。御父さまは此手紙あおむけにねていて万年ふででかきました。からだがつかれて長い御返事が書けません