斎藤道三の覚悟が分かる子供に宛てた最後の手紙(遺書)の内容

斎藤道三が子供に残した最後の手紙

斎藤道三

北条早雲らと並ぶ下克上大名の典型であり、名もない境遇から僧侶から油商人を経てついに戦国大名にまで成り上がった人物だとされる。権謀術数を用い、道三は美濃の戦国領主として天文23年(1554年)まで君臨した後、義龍へ家督を譲ったが、ほどなくして義龍と義絶し、弘治2年(1556年)4月に長良川河畔で義龍軍に敗れ、討ち死にした。

斎藤道三 wikipedia

斎藤道三が子供に残した手紙というのは、この長良川畔で我が子義龍(よしたつ)と戦った際に書いたものとされるもので、信長の救援を待たずに敗死した時のもの言われています。その後、斎藤義龍も後年信長に討たれたことで斎藤家は滅亡することになるのですが、戦国時代らしい手紙となっています。

 

斎藤道三が覚悟をし最後に残した手紙

※クリックで拡大

道三の手紙の現代語訳

わざわざこの手紙を書いたのは、美濃国の大桑は信長の思い通りに任せるしかないので、譲り状を渡した。よってただちに援軍をよこしてくれる手筈になっている。その方はかねて約束どおり、京都妙覚寺にのぼるように。一人の子供が出家すると、九族(家族、親戚)が救われるという言い伝えがある。
この様に手紙を書いている間にも涙が流れて止まらない。それも夢。斎藤山城は法花妙体の中にあって、この世の苦しみを捨て修羅場にあっても、仏の果報を得る事と嬉しく思っている。明日の戦で五体不具、戦死は間違いないが、この世に住むしか方法が無いに、何処が最後の住家であろうか。

 

斎藤道三が最後を迎えてしまう背景

天文23年(1554年)、斎藤利政(道三)は家督を子の斎藤義龍へ譲り、自らは常在寺で剃髪入道を遂げて道三と名前を変え、鷺山城に隠居したが、道三は斎藤家を継いだ義龍よりも、その弟である孫四郎や喜平次らを偏愛したことで義龍の謀反を引き起こしてしまったとされる。

そのうち道三と義龍の不和は顕在化し、弘治元年(1555年)に義龍は弟達を殺害し、道三に対して挙兵する。弘治2年(1556年)4月、17,500の兵を率いる義龍に対し、2,500の兵の道三が長良川河畔で戦い(長良川の戦い)、娘婿の信長が援軍を派兵したものの間に合わずに衆寡敵せず戦死。享年63。

 

   

 - 戦国武将