明智光秀が親戚関係にあった細川幽斎に手紙を送った理由
明智光秀が織田信長を本能寺の変で破った時の細川家の当主は、細川幽斎(藤孝)で、その藤孝の息子の細川忠興(ほそかわただおき)は、明智光秀の娘(三女 明智玉)である細川ガラシャと結婚してました。(つまりは親戚関係にあったことになります)
細川家
細川家とは、足利家や、織田信長(明智光秀にはつかず)、豊臣秀吉、そして徳川家康に仕え、最後は、肥後国(ひごのくに/現在の熊本県)54万石の有力大名
そういった関係もあり、明智光秀は細川氏宛てに送った手紙の中で、自分に味方するような依頼と今後の展望を語っている内容になっており、四面楚歌となりつつある当時の光秀が細川氏を頼る内容の手紙であり、光秀の心境と焦りがよく表れた手紙となっています。
【明智光秀】
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戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。美濃国の明智氏の支流の人物。一般に美濃の明智荘の明智城の出身と言われているが、他の説もある。
最初は、土岐氏に代わって美濃の国主となった斎藤道三に仕えた。道三と義龍の親子の争い(長良川の戦い)の結果、浪人となり、越前国の一乗谷に本拠を持つ朝倉義景を頼り、長崎称念寺の門前に十年ほど暮らし、このころに医学の知識を身に付ける。その後、足利義昭に仕え、さらに織田信長に仕えるようになった。
元亀2年(1571年)の比叡山焼き討ちへ貢献し、坂本城の城主となる。天正元年(1573年)の一乗谷攻略や丹波攻略にも貢献した。
天正10年(1582年)、京都の本能寺で織田信長を討ち、その息子信忠も二条新御所で自刃に追いやり(本能寺の変)信長親子による独裁政治に幕を引き天下統一に道筋を付けた。
明智光秀が細川幽斎に宛てた本音の手紙
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光秀の本音が詰まった手紙の現代語訳
覚え
1 信長父子の死を痛んで髪を切られた由、 私も一時 は腹が立ちましたが、考えて見れば無理もない事と了解いたしました。この上は私にお味方され、大身の大名になられるようお願いいたします。
1 領地の事は、内々攝州(兵庫県)をと考えておのぼり をお待ちします。但馬・若狭の事はご相談致しましょう。
1 この度の思い立ちは、他念はありません。50日100日の内には近国も平定できると思いますので、 娘 婿の忠興等を取りたてて自分は引退して、十五郎(光秀の長男))・与一郎(細川忠興)等に譲る予定です。詳しい事は両人に伝えます。
光秀
明智光秀の手紙虚しく四面楚歌。そして光秀の最後
この手紙の想いもむなしく、姻戚関係もある細川幽斎・忠興親子は信長への弔意を示すために髻を払い、松井康之を通じて神戸信孝に二心の無いことを示し、さらに光秀の娘で忠興の正室・珠(後の細川ガラシャ)を幽閉して光秀の誘いを拒絶した。
そして、信長が討たれた報を知り急遽、毛利氏と和睦して中国地方から引き返してきた羽柴秀吉の軍と、本能寺の変から11日後に、天王山の麓の山崎という場所で決戦となり敗北し、最後は農民の竹槍に逢うというあっけない最後を遂げた