武田信玄の男色(同性愛)を示す証拠の手紙と知られざる内容と詳細

武田信玄(晴信)の手紙とその秘密の内容

日本における男性同性愛や男性同士の性行為について、明治時代初頭の一時期より前には、同性愛を制限する法律は存在せず、場所や状況によっては男色はほとんど公然と行われたといわれています。

戦国時代においても、珍しいことではなく、武田信玄だけではなく伊達政宗や小早川隆景、陶晴賢など有名武将もこういった性的嗜好を持っていたとされる。特に戦国時代においては男色というものが広く認知されており多くの人が経験のあるものとされるものだと言われています。

 

信玄が春日源助に書いたとされるラブレター

信玄は、武田二十四将のひとりである、高坂弾正昌信(春日源助)に宛てたとされるラブレターが残っており、内容は浮気を疑われたことに対しての言い訳とお詫びを綴るものだったとされています。

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信玄の浮気の言い訳現代語訳

1 自分が弥七郎をくどいた事は何度もあるが、いつも 腹痛と言って断られた。これは本当のことである。
1 これまで弥七郎と寝たことはない。もちろん昼夜ともそんなことはしていないし、まして今夜は思いもしない。
1 おまえと親しくしようと思って、いろいろ手をもわすとかえって疑われる事になり困っている。これらのこともし嘘があれば甲州一の宮(山梨県一宮町浅間神社)二の宮(山梨県御坂町美和神社)三の宮(山梨県甲府市玉諸神社)の大明神、富士(富士宮  市富士浅間神社)、白山(山梨県河口湖町白山神社)ら領内の神々、ことに八幡大菩薩、諏訪上下明神の罰を受けるだろう。

本当なら正式な起請文の紙に書くべきであるが、役人の目がうるさいので、白紙に書いた。明日にでも書きなおす予定である。

7月5日  晴信(信玄)

 

相手の春日源助(高坂弾正昌信)について

現在の山梨県笛吹市の百姓である春日大隅の子として生まれたとされ、天文11年(1542年)に父大隅が死去した後、姉夫婦との遺産を巡る裁判で敗訴して身寄りが無くなるが、信玄の奥近習として召抱えられたといわれています。はじめは使番として働き、天文21年(1552年)には100騎持を預る足軽大将となり、春日弾正忠を名乗り信玄に仕えたと甲陽軍鑑に記されています。