人間魚雷「回天」に搭乗し戦場へ旅立っていった人たちの手紙(遺書)と心境

人間魚雷「回天」特攻隊員の手紙と愛する人たちへの気持ち

飛行機での特攻隊と同じく、海においても超大型魚雷「九三式三型魚雷(酸素魚雷)」を転用し、特攻兵器として利用された「回天」乗組員が太平洋戦争において犠牲になったことは決して忘れてはいけません。

「回天」は、魚雷の本体に外筒を被せて気蓄タンク(酸素)の間に一人乗りのスペースを設け、簡単な操船装置や調整バルブ、襲撃用の潜望鏡を設けただけのもので、ハッチは内部から開閉可能であったが、脱出装置はなく、一度出撃すれば攻撃の成否にかかわらず乗員の命はなかったという特攻のみに作られたものです。

これら搭乗員の命を懸けて特攻していかなければならない状況や環境の中で彼らが何を思い、何を考えて戦地へ向かったのかが手紙や遺書によって明らかにされています。

 

塚本太郎・陸軍少佐の家族への思いと遺書

(特別攻撃用一人乗潜水艦「回天一号」に乗り勇敢に米艦に体当たり攻撃を敢行した。)

父よ、母よ、弟よ、妹よ。そして永い間はぐくんでくれた町よ、学校よ、さようなら。本当にありがとう。こんなわがままなものを、よくもまあ本当にありがとう。僕はもっと、もっと、いつまでもみんなと一緒に楽しく暮らしたいんだ。愉快に勉強し、みんなにうんとご恩返しをしなければならないんだ。

春は春風が都の空におどり、みんなと川辺に遊んだっけ。夏は氏神様のお祭りだ。神楽ばやしがあふれている。昔はなつかしいよ。秋になれば、お月見だといってあの崖下に「すすき」を取りにいったね。あそこで、転んだのは誰だったかしら。雪が降りだすとみんな大喜びで外へ出て雪合戦だ。昔はなつかしいなあ。こうやってみんなと愉快にいつまでも暮らしたい。喧嘩したり争ったりしても心の中ではいつでも手を握りあって――。

然し僕はこんなにも幸福な家族の一員である前に、日本人であることを忘れてはならないと思うんだ。日本人、日本人、自分の中には三千年の間受け継がれてきた先祖の息吹が脈打ってるんだ。鎧兜に身をかため、君の馬前に討死した武士の野辺路の草を彩ったのと同じ、同じ匂いの血潮が流れているんだ。そして今、怨敵撃つべしとの至尊の詔が下された。十二月八日のあの瞬間から、我々は、我々青年は、余生の全てを祖国に捧ぐべき輝かしき名誉を担ったのだ。人生二十年。余生に費やされるべき精力のすべてをこの決戦の一瞬に捧げよう。怨敵撃襄せよ。おやじの、おじいさんの、ひいおじいさんの血が叫ぶ。血が叫ぶ。全てを乗り越えてただ勝利へ、征くぞ、やるぞ。

年長けし人々よ、我等なき後の守りに、大東亜の建設に、白髪を染め、齢を天に返して健闘せられよ。又幼き者よ、我等の屍をふみ越え銃刃を閃めかして進め。日章旗を翻して前進せよ。至尊の御命令である。日本人の気概だ。永遠に栄あれ祖国日本。我等今ぞいかん、南の海に北の島に全てをなげうって戦わん。大東亜の天地が呼んでいる。十億の民が希望の瞳で招いている。みんなさようなら!元気で征きます

愛する家族への気持ちと、日本のためという複雑な心境がよく分かる手紙でもありますが、乗ったら最後という回天の仕組みと戦地へ赴く覚悟が痛いほど伝わってくる手紙。

 

佐藤章・少尉の妻へ宛てた手紙

(亨年26歳。回天特攻で戦死)

まりゑ殿 かねて覚悟し念願していた「海征かば」の名誉の出発の日が来た。日本男子として皇国の運命を背負って立つは当然のことではあるが、然しこれで「俺も日本男子」だぞと、自覚の念を強うして非常にうれしい。短い間ではあったが、心からのお世話に相成った。俺にとっては日本一の妻ではあった。

小生は何処にいようとも、君の身辺を守っている。正しい道を正しく直く生き抜いてくれ。子供も、唯堂々と育て上げてくれ、所謂偉くすることもいらぬ。金持ちにする必要もない。日本の運命を負って地下百尺の捨石となる男子を育て上げよ。小生も立派に死んでくる。充分身体に気をつけて栄え行く日本の姿を小生の姿と思ひつつ強く正しく直く生き抜いてくれ

26歳で妻子供をおいて戦地に向かわねばならなかった佐藤少尉の気持ちのこもった手紙。妻への愛と覚悟が伝わってくる内容の手紙になっています。

 

水知創一・海軍大尉の兄弟に宛てた手紙

(1945(昭和20).7.16、本邦東南海面にて戦死。兵庫県出身。亨年21歳。所属は回天特別攻撃隊「轟隊」)

愼二様 急に休暇が許され、又余りにも短かったので呼ぶ事が出来ず悪い事をしました。愼二は私のたった一人の弟です。早く立派な人になって父上、母上を喜ばしてあげて下さい。兄の様な親の心配を掛けてばかりゐる様な男になってはなりません。今に兄達が必ず敵をやっつけますから後は、愼二達が一所懸命勉強して日本をますます良い国にして下さい。では元気でしっかりやって下さい。

創一

 

池淵信・海軍中尉の母親に宛てた手紙

(1945(昭和20).6.28日、マリアナ海域にて戦死。回天特別攻撃隊)

母上様 軍務は一寸不明のため遂に面会できず申し訳ありません。お母さんも既に覚悟はしてくださったことと信じますが、特攻隊員の母として強く強く生き抜いてください。国難に際し、国恩に報ずるは臣たるの道であり、家門の誉れであります。お母さんは私の幼い時のことを言って時折涙を流すそうですが、信夫は決してお母さんの考えるような可哀そうな子ではありませんでした。信夫は日本一の幸福者であつたと信じています。いらぬ気はつかわずにいてください。信夫の身は再びお母さんのもとに還らずとも、何時までもお母さんの心の中に生きて行きます。信夫にとっては日本一のお母さんでした。親孝行もできず、お許しください。しかし信夫は最高の孝の道を選んだと信じます。雪さんが母のもとに居ます。信夫も安心して征けます。どうか何時までも御達者で御暮しください