手紙の書き方、英語の手紙の書き方ナビ|Liaty.com

手紙の書き方、英語の手紙の書き方のトータルナビ

明智光秀の心境がよく分かる細川幽斎に送った手紙の内容と依頼内容

明智光秀の焦りが見える手紙の内容と詳細

明智光秀が織田信長を本能寺の変で破った時の細川家の当主は、細川幽斎(藤孝)で、その藤孝の息子の細川忠興(ほそかわただおき)は、明智光秀の娘である細川ガラシャと結婚してました。

細川家
細川家とは、足利家や、織田信長(明智光秀にはつかず)、豊臣秀吉、そして徳川家康に仕え、最後は、肥後国(ひごのくに/現在の熊本県)54万石の有力大名

そういった関係もあり、明智光秀は細川氏宛てに送った手紙の中で、味方するような依頼と今後の展望を語っている内容になっており、当時の光秀の心境と焦りがよく表れた手紙となっています。

 

明智光秀が細川幽斎に宛てた本音の手紙

※クリックで拡大

 

光秀の本音が詰まった手紙の現代語訳

覚え
1 信長父子の死を痛んで髪を切られた由、 私も一時 は腹が立ちましたが、考えて見れば無理もない事と了解いたしました。この上は私にお味方され、大身の大名になられるようお願いいたします。

1 領地の事は、内々攝州(兵庫県)をと考えておのぼり をお待ちします。但馬・若狭の事はご相談致しましょう。
1 この度の思い立ちは、他念はありません。50日100日の内には近国も平定できると思いますので、 娘 婿の忠興等を取りたてて自分は引退して、十五郎(光秀の長男))・与一郎(細川忠興)等に譲る予定です。詳しい事は両人に伝えます。

光秀

 

明智光秀、四面楚歌と最後

この手紙の想いもむなしく、姻戚関係もある細川幽斎・忠興親子は信長への弔意を示すために髻を払い、松井康之を通じて神戸信孝に二心の無いことを示し、さらに光秀の娘で忠興の正室・珠(後の細川ガラシャ)を幽閉して光秀の誘いを拒絶した。

そして、信長が討たれた報を知り急遽、毛利氏と和睦して中国地方から引き返してきた羽柴秀吉の軍と、本能寺の変から11日後に、天王山の麓の山崎という場所で決戦となり敗北し、最後は農民の竹槍に逢うというあっけない最後を遂げた

   

 - 戦国武将